東華大学の李嘉冬先生のご案内で、上海と日本の歴史を巡る「ぶらり旅」。
東華大学の学生も3人参加してくれました。
四川北路(二回目)
第一人民医院分院
医学博士頓宮寛が1924年開いた総合病院。魯迅の令息周海嬰がここで生まれた。また、前述の1932年「新公園(現・魯迅公園)」で発生した自爆テロ事件の際、重光葵公使らがこの病院で治療を受けた。中華人民共和国成立後、長い間「第四人民医院」と称されている。
虹口区実験中学校
上海日本尋常高等小学校、のちに北部第一小学校へ改称。校舎は1917年落成した鉄筋四階建の建物。
乍浦路
西本願寺
建物は東京築地本願寺を模したインド・アジャンター式で、岡野重久の設計により1931年竣工した。
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常盤館
当時、虹口エリアで三大日本旅館のひとつ。
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本圀寺
日蓮宗の寺院。大正末年の信者は500人ほどとされている。
北海寧路
豊陽館
常盤館と同じく、虹口エリアで三大日本旅館のひとつ。上海のことを「魔都」と名づけた小説家村松梢風が宿泊した宿。
呉淞路・武進路
上海毎日新聞社旧跡
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第一人民医院
1864年カトリック修道女により作られた公済医院(The General Hospital)
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消防局虹口中隊
1915年より虹口救火会。その眺望塔は中国初のもの。
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虹口中学校
かつては中部日本小学校、1929年4月創立。39年当時の生徒数1484、職員数は34。鉄筋コンクリート造りの四階建ての校舎が間もなく解体される模様。
乍浦路(二回目)
中国最初の常設映画館とされる虹口シネマ(Hongkew Cinema、1908年スペイン人ラモスにより開設)の旧跡。
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浦西公寓
1931年建てられた鉄筋コンクリート造りの高級アパート、当時の名前はピアス・アパート。1932年、松本重治は上海赴任当初ここ三階の一室に住む。また、アヘン王と称される里見甫がここで八年間住んでいたという。
四川北路 (三回目)
大橋大楼
L字型の七階建てのビルで、日本憲兵隊本部として1937~1945年使われている。
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新亜大酒店
1934年建造。
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上海郵政総局
ワシントン条約によって中国国内の諸外国の郵便局が廃止された後の1922年に着工、1924年竣工。四階建ての重厚な古典主義建築。二階のフロアに上海郵政博物館(江沢民題字)が設けられている。二年前までは屋上のテラスへの立ち入りが可能だったが、現在は封鎖中。
その他・外灘付近
上海大厦
1934年竣工のブロードウェイ・マンション、現在は五つ星ホテル。
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ロシア総領事館
1917年建造の煉瓦造り四階建て。当時、隣りにドイツ総領事館、アメリカ総領事館、日本総領 事館があったが、現存されているのはここロシア総領事館と日本総領事館(目下は軍施設として使用される)。
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浦江飯店
もともとアスター・ハウス・ホテル(中国名:礼査飯店)という上海最初の本格的洋風ホテル。チャップリン、アインシュタイン、バートランド・ラッセル等々多くの有名人がここで宿泊。
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外白渡橋
英語名はガーデン・ブリッジ。最初は木製の橋だったが、現在の橋は1907年完成の鉄骨橋。日本占領期には日本軍の検閲所が設けられた。アン・リー(李安)監督の映画「ラスト・コーション(中国名は色・戒)」の中で登場している。
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外灘源
1872年建てられた英国総領事館をはじめ、十五の1920~1930年代の優秀歴史建築物を擁する新しい 観光名所。米ロックフェラー・グループが手がけたプロジェクトという。
【往路】
魯迅公園-山陰路-四川北路(北端)-多倫路文化名人街
【復路】
四川北路(二回目)-乍浦路-北海寧路-呉淞路・武進路-乍浦路(二回目)-四川北路 (三回目)
【その他・外灘付近】