第3回:「帰国、という選択」 -阪本智子さん-

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    日本語教師として上海にやって来たという阪本智子さん。現在は一時帰国中に知り合った貿易会社の社長の下で、事務兼秘書として働いている。

    「初めて上海に来たのは2004年5月です。日本で仕事を探して、インターネット面接を受けて日本語教師の職を見つけました。」
    元々好奇心の強い智子さんは、オーストラリアでのワーキングホリデー経験を持つ行動派。当時知り合った日本人女性との出会いが、日本語教師を志した大きなきっかけだという。「短大を卒業して、ゼネコンで総務・受付・経理と5年ほど働いていましたが、海外へ出たいという気持ちはずっとありました。リゾート好きでもあったので、ワーキングホリデーを利用してオーストラリアへ行こうと決めたんです。」

    広い大地、知らないものとの出会いに感化され、成長をとげた智子さんは、ワーキングホリデーを終えるとさっそく日本語教師の資格を取得した。日本にいながらにしての職探しは困難であったが、海外で働きたいという想いは強かった。「タイ、中国、台湾などに履歴書を送りました。ビザ取得の関係で台湾は4大卒のみの採用、さらに語学留学生もライバルです。資格はありましたが経験もない私には、正直厳しいと感じました。」
    積極的アプローチのかいあって、上海での日本語教師の仕事をゲットした智子さんだが、半年後に家庭の事情で日本に帰ることになってしまう。しかし、ここで上海との縁が切れたわけではなかった。帰国中に知り合った貿易会社の社長から、上海事務所立ち上げを手伝ってほしいというラブコールをうけたのである。立ち上げに興味を持った智子さんは、ふたたび上海へ行くことを決めた。「日本での経験も活かせるし、何より自分たちで創っていくことに魅力を感じました。」

    こうしてふたたび上海にやって来た智子さんは、貿易事務、秘書業務をこなしながら杭州やマカオへ出張するような忙しい日々を送ることとなった。すべてが新しい上海事務所では、とまどうことも多かった。「学校に行って習ったわけでもない中国語を毎日耳にして、それでも毎日の業務をこなさなくてはならない。でも、しんどいと思ったことはないんです。縁がなかったら海外に来ようなんて思わないし、日本人としても、自分にできることを今やりたい。後悔はしたくないから。」
    充実した毎日を送る智子さんだが、今年いっぱいで日本に本帰国することが決まっている。帰国後は中国語を勉強したり、2月くらいからは職探しを始める予定だ。「自分にとって人生設計はとても大切。1年くらい働いてみて、帰国というのもひとつの選択肢であることに気付きました。今までは外に目を向けてきましたが、家族のこと、日本のことについて、向き合ってみるいいタイミングなのかもしれません。」

    はつらつとした笑顔が魅力的な智子さんは、残り少なくなった上海生活を楽しみながら、次なる人生設計を描き始めている。

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    宮城県生まれ。 国際基督教大学教養学部卒業。2004年より上海戯劇学院に留学。 その後、上海にて映像制作の仕事に関わる。現在は東京で、コーディネーターときどきウェブ、イベント制作を担当しています。

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