(1) 中国のマックウィーン
湖南の地からは毛沢東や劉少奇のような、革命の「英雄」が多く輩出されていている。
そして、かれらが幼少から青年期を過ごした場所を一度見ておきたかったぼくは、2005年の夏、上海で寝台列車に乗りこむと湖南省の省都・長沙へと向かった。

寝台列車で偶然隣り合わせた男。
良く言えばスティーブ・マックウィーンのようでもあり、悪く言えば?レイザーラモンHGのようなサングラスをしているマッチョな軍幹部(湖南には全国五指に入る名門の軍幹部養成学校があるということ)に宿を紹介してもらうと、疲れていたので特に値段交渉もせずにホテルを決めてチェックイン。
ホテルのカウンターで次の日の韶山ツアー(毛沢東生家などをまわる)に申し込んだぼくは、大通りをぶらぶらと散歩し、目についた「火宮殿」という湖南料理屋に入ると、後は湖南料理の辛さにしびれた舌をビールでなだめながら夜まで過ごした(中国のビールは総じて薄く下戸でもそれなりに飲める)。

列車のなかでまわってくる売り子のしつこい売り込みに「うっとうしい(煩!)」と呟いたぼくをチラッとみると隣の軍幹部は言った。
「あいつらは昔はただ乗っているだけでよかった。売ろうが売るまいが手取りは変わらないしな。でも売らなきゃ稼ぎが減る今、生きていくのに必死なんだよ」
怒るのでもない、軽蔑するのでもない、諭すような顔で言ったのを、ビールを飲みながら思い出した。
蒜泥黄瓜(キュウリのニンニク和え)は湖南らしくピリ辛だった。
そして、ぼくのなかでかれはマックウィーンに完全昇格した。
(2) 劇場社会 第一幕
で、次の日。
6時に起きてホテルの脇の店で簡単な朝食を済ませた後、フロントの待ち合わせ場所で第一幕が上がった。

突然、ものすごい剣幕でおばさんが怒鳴り込んでくる。
それは支払ったツアー代金が他の客よりも割高だったことに対する怒りのようだった。「お客様は神様です」、なんていやらしい権力関係のない真っ当な社会ではツアーガイドも負けずと怒鳴り返す。
するとおばさんの家族も集まってきておばさんを応援する。
するとガイド仲間が集まってきて応援する。
動物の群れと群れの縄張り争いのようになってくる。
おばさんらは最後に何事かウヒャーと絶叫すると大きい音をたてて外へでていった。
捨てぜりふ、というのはこういうことをいうのだろうな。とぼんやり思う。
なぜこういうことが起きるのだろうか。
例えば中国であるツアーに参加するとしよう。中国は日本と異なり、そのとき支払わなければならない料金は、申し込む場所、交渉などによって大きく変わってくる。100元で昼食無しの客もいれば、90元で昼食付きの客もいるのは当たり前の光景だ。
旅行会社にしてみれば、高い料金をふんだくればその分が稼ぎとなる。だからできるだけ高い料金でサインさせようとする。
この情況のなかで、できるだけ自分に有利な条件を勝ち取るために何が必要かといえば、それは演技力である。
いかにも他の選択肢があるようにみせつつ、時に不遜な、時に友好的な態度を示しながら、妥当な値段を探りつつ落としどころをみつける。ユーモア。
(3) 劇場社会 第二幕
それからぼくが乗り込んだ韶山ツアーのバスは案の定、なかなか出発しなかった。もちろん人をできるだけ詰め込んでから出発しようとするから。
1時間も過ぎただろうか。ようやく出発したバス。しかし30分も走らないうちに動かなくなる。…、またかよ…。バスの遅れる・壊れる・でも直さない、は地方に普遍的な現象のようだ。
ハードボイルドなかれらはとりあえず走る。その後は壊れてから考えりゃあいいだろ!というわけ。
「…、そりゃあ、そうだ。オーケー…」
軟弱なぼくが心理的に妥協しようとしたそのとき、客のおやじのひとりが大げさな身振りを交えて猛然と演じ始めた。

おやじ客「おーい!みんな、もうやめだ!やめだ!金を返してもらおう」
おばば客「そうね。みんな帰りましょう!」
他の客「そうだな。とりあえず金は返して貰おう!」
ツアーガイドは次のバスを急いで用意すること、最新式で空調付きであることを強調しつつ、なんとか客をなだめる。緊迫する空気。しばらく押し問答が続いているうちに、新しいバスがやってくる。
と、そのとたん、当たり前のように乗り込んでいくおやじと客たち。ツアーガイドもニコニコしながらマイクを持ち、湖南省の歴史について説明し始める。場の空気の変化に取り残されるオレ。
日常の戯劇の前にポカンとしてしまって…

コミュニケーション・ツールとしての「演技」をなくして久しい多くの日本人にとっては理解しがたい。が、日本から一歩外に出てみれば、日常生活のなかの重要なツールとして「演技」が組み込まれている社会は意外に多い。
逆にいえば、演じてアピールしてくれなければ何を考えているのか理解できない。「なんだ?今まで何も言わなかったくせに、突然マジで怒りだしやがって。変なヤツだな」ということになってしまうようだ。
日本人は自己主張が弱い、とは手垢にまみれた常套句だけれど、もっと正確に言えば、自分の主張を伝えるための演技に長けていないということではないのかな、とも思う。
自己主張というのはストレートな感情表現ではなく、あくまで「演ずる」というフィルターを通さなければならないのかもしれない。そうでなければユーモアも生まれないし、「どうしても気に入らないから刺し殺す」というような、真剣味あふれすぎの表現になってしまう。
日常に演じられる社会のユーモアと開放感がぼくは好きなようだ。あっけにとられた後は、大根役者の自分がなんだか無性に可笑しくなってくる。
ぼくがバスのなかで一人笑っているのを隣の広東人が不思議そうにみた。数時間後、ぼくらは友達になった。

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